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奈良県キトラ古墳は誰の墓?見所や伝説!今なお不明な謎とは!

奈良県にあるキトラ古墳は、国宝に指定された壁画を持つ古墳です。
この古墳は、いつ、誰によって、どのような目的で造られたのでしょうか?
キトラ古墳の見所や伝説、謎について紹介します。

キトラ古墳とは
キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村の阿部山にある古墳です。
国の特別史跡に指定されており、壁画は国宝になっています。
キトラ古墳は、二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、高さ2.4m、下段が直径13.8m、高さ90cmです。
中央には石室があり、内部は幅約1m、長さ約2.6m、高さ約1.3mです。
石室の内壁には漆喰が塗られ、その上に極彩色の壁画が描かれています。
壁画には、東西南北の四壁に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が、天井には本格的な天文図が、四神の下には十二支の獣頭人身像が描かれています。
これらの壁画は、中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていると考えられていますが、日本独自の特色も見られます。
キトラ古墳の名前の由来は、入り口から内部を覗くと亀と虎の壁画が見えたことから「亀虎古墳」と呼ばれたという説や、古墳の南側の地名「北浦」がなまって「キトラ」になったという説などがあります。

誰の墓?由縁のある伝説
キトラ古墳の被葬者は、今なお不明です。
しかし、壁画や出土品から、身分や地位の高い人物であったことは確かです。
様々な人物が想像されていますが、代表的な説は以下の通りです。

阿倍御主人説
右大臣の阿倍御主人(あべのおもと)は、大宝3年(703年)に69歳で没しました。
古墳の周辺一帯が「阿部山」という地名であることから、阿倍御主人の墓であるという説があります。
阿倍御主人は、百済王の子孫であり、百済の文化を日本に伝えた人物とされています。
壁画に描かれた四神や十二支は、百済の影響を受けたものと考えられています。
藤原鎌足説
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、大宝元年(701年)に70歳で没しました。
藤原鎌足は、藤原氏の祖であり、天武天皇や持統天皇に仕えた重臣でした。
藤原鎌足は、明日香村に居館を構えていたという記録があります。
壁画に描かれた天文図は、藤原鎌足が天文学に関心があったことを示しているという説があります。
天武天皇説
天武天皇(てんむてんのう)は、天武天皇13年(684年)に57歳で没しました。
天武天皇は、大化の改新で中大兄皇子として政権を掌握し、日本の初代天皇となりました。
天武天皇は、明日香村に都を遷し、多くの古墳を造営しました。
壁画に描かれた四神や天文図は、天武天皇が中国の天文学や易学に傾倒していたことを示しているという説があります。
これらの説のいずれも、確たる証拠はありません。
キトラ古墳の被葬者は、今なお謎に包まれています。

まとめ
キトラ古墳は、奈良県にある国宝の壁画を持つ古墳です。
この古墳は、7世紀末から8世紀初めにかけて造られたと推定されていますが、誰の墓であるかは不明です。
様々な人物が候補として挙げられていますが、確定するにはまだ研究が必要です。
キトラ古墳の壁画は、東アジア最古の天文図を含む貴重な文化遺産です。
キトラ古墳は、奈良県の観光スポットとしてもおすすめです。
ぜひ、一度訪れてみてください。